IMG_2601.jpg

用事で元町に行ったついでに散歩して帰りました。山下公園から赤煉瓦倉庫、そして、万国橋の手前のいつものベンチで暮れなずむ運河を眺めながらしばし休憩したのち、汽車道を通って横浜駅まで歩きました。

今更という感じですが、元町はもはや中高年の街と化しています。中高年の成金夫婦がこれ見よがしに高級車に乗ってやって来るのをよく見かけますが、彼らにとって元町はやはり特別な街なのでしょうか。もっとも、写真のビルも1階の奥や写真に映っていませんが右側はテナントが撤退したままになっており、元町の今を象徴している気がしました。

一方で、元町では未だにハマトラのイメージを追いかけている元祖女子大生の女性達も多く見かけます。

前に関内のジャズクラブに行ったら、そこに見事なくらい全身ハマトラで固めた中年女性が来ていました。そして、やにわに立ち上がると、演奏に合わせて上体を左右に振りながら手拍子を打ちはじめたのでした。しかも、その手拍子がどう見ても氷川きよしのズンドコズンドコみたいなテンポで、演奏にまったく合っていませんでした。私は、そのうちキタムラのバックからペンライトを出すんじゃないかと思ってヒヤヒヤしながら見ていました。

週末になると、全身コテコテのアイビールックのおっさんを見ることもできます。間違っても森ガールのような若い子は歩いていません。そもそも元町に行くのによそいきの格好をするという発想からしてアナクロですが、知り合いの若い子に言わせれば、その気持が健気でかわいいのだそうです。若い子達はちょっとおしゃれな巣鴨のように見ているのかもしれません。

山下公園の前の銀杏並木もすっかり色づいていました。公園の中も夕暮れを前にゆったりした時間が流れ、散歩するにはいい季節だなと思いました。

IMG_2602.jpg
ホテルニューグランド

IMG_2603.jpg

IMG_2604.jpg

IMG_2605.jpg

IMG_2616.jpg
山下公園

IMG_2606.jpg
神奈川県庁

IMG_2607.jpg
いつものベンチ

IMG_2608.jpg
万国橋の上から

IMG_2609.jpg
汽車道

IMG_2610.jpg

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.11.26 Thu l 横浜 l top ▲
日本大通り2009年11月

今日もこちらは真冬のような寒い一日でした。夕方から買い物に行ったのですが、キルティングのジャケットにマフラーをして出かけました。

ついでに、日本大通りから象の鼻パークを散歩しましたが、さすがに人どおりは少なく閑散としていました。日本大通りも既にクリスマスのイルミネーションの飾り付けが終わっていましたが、なんだか例年に比べて質素な感じを受けました。象の鼻パークもいつもの休日に比べるとカップルが少なかったうように思います。

そのあと、久しぶりに伊勢佐木町の有隣堂に行きましたが、裏の文具館から文具売場が移ってきたのに伴い、書籍売場はB1〜2階と5階に縮小されていました。以前に比べると、明らかに品揃えも悪くなっていて、目当ての本はいづれも在庫がありませんでした。そのためか、休日とはいえ客の姿も少なくなっているように思いました。横浜は品揃えが豊富な書店がホントに少ないのですが、これではやはり都内に行くしかないのかもしれません。そういえば、みなとみらいのランドマークの中にあった有隣堂も既に閉店してくまざわ書店に変わっていました。大型書店の場合、日販トーハンなど大手の取次店による系列化が進んでいますが、有隣堂のような独立系の書店はその分シビアにならざるを得ないのでしょう。創業の地・伊勢佐木町から撤退するのではないかという噂もあながちウソではないのかもしれません。

ところで、有隣堂の入口では制服姿の警備員が立っていて、いかめしい表情で店内を見渡していました。警備員はときどき別の場所に移動したり、さらに吹き抜けになっている2階に上がって、上から1階のフロアを見下ろしたりしていました。客の立場からみると、なんだか監視されているようでいやな感じですが、恐らくそれは万引き対策というより、ホームレスや労務者の人達が店内に入って長居をしないように目を光らせているのだと思います。これも伊勢佐木町の没落を象徴する光景かもしれません。

伊勢佐木町は外国人の比率も年々高くなっている気がします。もしかしたらイセザキモールを歩いているのは、外国人の方が多いんじゃないかと思うくらいです。たまたま警察官が無届営業の露店に注意をしていましたが、横を通りすぎていく外国人達が何度もうしろを振り返りやたら警察官を気にしていたのが印象的でした。私は以前は埼玉に住んでいましたので、池袋の西口もよく知っていますが、池袋と比べても伊勢佐木町の外国人はガラが悪く荒んでいる気がします。このまま”暗黒街化”が進めば、そのうち馳星周の小説の舞台になるかもしれませんね(ひそかに期待しているのですが)。

ジャックの塔2009年11月

クィーンの塔2009年11月

象の鼻公園2009年11月

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.11.22 Sun l 横浜 l top ▲
sweet sweet

今日はこちらは真冬のような寒さでした。しかも、冷たい雨まで降っていて、さすがに出かけるのもおっくうで、終日、家にこもっていました。

こんなときは暖かい部屋で音楽でも聴くのがいちばんです。たまたまラジオで耳にしたのあのわの「Sweet Sweet」という歌がいいなと思い、くり返し聴いています。たしかにcharaに似たところがありますが、この空気感というか、醸し出す雰囲気がなんともいえず都会的でオシャレなのです。せつない恋の歌にもかかわらず、私は、なぜか原宿や渋谷の路地裏にあったひと昔前の輸入雑貨の店を思い出しました。ちなみに、「Sweet Sweet」にも「つないだ手」という歌詞が出てきます。

ところで、今日は夕方のニュース番組の女性キャスターが婚約?とかで、終日この話題で持ちっきりでした。これではデスクから怒鳴られながら夜討ち朝駆けの取材活動をしている現場の記者達に同情せざるをえません。「オレ達が汗を流して取材しているというのに、芸能人やプロ野球選手とチャラチャラしてるんじゃねぇ〜よ」という声が聞えてきそうですね。

私はまだ読んでいませんが、柳美里の『オンエア』(講談社)もこういった世界を描いているのかもしれません。以前、モデルの女の子から、自分達がいかに業界の男達から欲望の対象として見られているかという話を聞いたことがありますが、女子アナもそういった世界と無縁だとは思えません。

雑誌『サイゾー』(12月号)のインタビューで、柳美里は、女子アナというのは同性に嫌われる傾向があると言ってましたが、なんとなくわかりますね。出自がよくて(いいとこのお嬢さんで)、容姿端麗で、一流大学卒なのですが、一方で、カマトトでどこか男に媚びているようなイメージがあるのです。女性にとって、「男に媚びる」というのは間違いなく嫌われる要素なのですね。テレビ局にすれば単なる視聴率稼ぎのお人形さんでしかないのかもしれませんが、それがどうして結構計算高く世渡り上手な面もあるのです。そういったところも同性の視聴者に反感をもたれる理由かもしれません。

そんな欲望や羨望や嫉妬などさまざまな視線にさらされる中で、今や女子アナという職業が一種の”虚業”になっている感さえありますね。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.11.19 Thu l 文化・芸能 l top ▲
このところずっと忙しくて、これではいけないなと自分でも思っていました。それで、昨日今日と時間が空くので、久しぶりにどこかに出かけようかと思っていたら、あいにく雨でした。なんだかよけい気が滅入ってしまいました。

それでというわけではないのですが、突然、今流行りの歌を聴いてみたいと思いました。といって、何を聴いていいのかわからないので、モーラといういつも利用している音楽サイトで、邦楽の「楽曲ランキング」の中から女の子の歌を5曲選んでダウンロードしてみました。下記がダウンロードした曲です。ちなみに、この中で私が知っていたのは、いきものがたりと中島美嘉だけでした(Cil'BとRYTHEMは読み方もわかりません)。

いきものがたり「なくもんか」
Cil'B「つないだ手」
中島美嘉「流れ星」
西野カナ「もっと‥」
RYTHEM「ツナイデテ」

たまたまなのかもしれませんが、この5曲のうち「もっと‥」をのぞく4曲の歌詞に共通した言葉があることに気付きました。「つなぐ」という言葉です。心や手を「つないでいたい」「つないでいくんだ」というのです。「もっと‥」にも「どんな時でも離さない」というフレーズがありました。最近の歌にはこの「つなぐ」という歌詞がホントに多いですね。

恋をすれば、手をつなぎたい気持もわからないでもありませんが、大塚英志氏の言葉を借りれば、なんだか恋愛に仮託しながらみずからの実存を承認してもらいたい気持がありありと出ている気がして、これが今の若者の特徴なのかと思いました。

そう言えば(ちょっと小難しい話になりますが)、東浩紀より7才若い宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(早川書房)などを読んでも、どこかで群れることを志向しているような気がします。やはり、手をつなぎたいのかもしれません。

宇野は、国家や村のような伝統的な共同体や会社のようなコミュニティが求心力をもたなくなった今、グローバル化がもたらした「アイデンティティ不安」の受け皿として、「木更津キャッツアイ」のような「郊外型のコミュニティ」(中間共同体)が必要だと言っていました。でも、もしかしたら「木更津キャッツアイ」がそのノリでよさこいソーラン祭りになるかもしれないし、また、宇野らが罵倒する派遣村と表と裏の関係かもしれないのです。

いつでもだれでも入れ替え可能のようなそんなシステム化された仕事しかなく、それに、どこまでがウソでどこまでがホントかわからないような膨大な情報(データ)に晒されて生きることを余儀なくされるこの時代は、若者達にとって生きにくい時代であることはたしかでしょう。でも、前にも書いたように、「絶望の虚妄なること、まさに希望と相同 じい」(魯迅)ではないですが、私は、寄る辺なき生は寄る辺なき生でいいじゃないか、そんな孤独に耐え絶望に耐えて生きていくことが人生じゃないかと思っています。

いわゆる「恋愛至上主義」にしても、「生きがい」を与えてくれた会社共同体が機能不全になったため、個人的な人間関係にしか人生の意味を見いだせなくなり、その結果、「友人関係と家族関係を媒介する」恋愛が特権的な人生の価値になったというのですが、考えてみれば、それは今にはじまったことではありません。伝統的な共同体や会社共同体が十全に機能していた神代の昔から恋愛は特権的でした。だから、坂口安吾だって「恋愛は人生の花だ」と言ったのです。

そもそも人生に「生きがい」なるものがあるとしても、私は、恋愛のようなものにしかそれはないように思います。その意味では、「個人的な人間関係にしか人生の意味をみいだせなくなった」今の状況はむしろいいことだと思います。要は、好きなものを好きだという感覚と、『無印ニッポン』で三浦展氏が言っていた「ものを見て、かわいいとか、楽しいとかいう感覚」、この二つを肯定できれば、共同体などに依拠しなくても人生はそれなりに幸せなものになるのではないでしょうか。そう考えると、女子の方がはるかに時代を自分のものにしているという気がしますね。手をつないでいないと不安で仕方ないのは男子の方なのでしょう。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.11.14 Sat l 文化・芸能 l top ▲
先日、FM横浜の「濱ジャズ」という番組を聴いていたら、茅ヶ崎在住の南佳孝さんがゲストで出ていて、「最近、音楽をやる情熱が薄らいできた」と言ってました。それを聴いて私は加藤和彦さんのことが頭に浮かんだのですが、どうしてかというと、「結局、なんだかんだ言っても売れてなんぼみたいなところがあるから」だと。問答無用の市場原理主義におおわれた昨今の風潮は、音楽もまた例外ではないのでしょう。

ただ、問題はそれだけではないような気がします。南さんの発言に対して、番組を担当しているDJのゴンザレス鈴木氏が、「本や音楽やファッションとかいったものがホントは時代を作っているんですけどね。それは変わってないと思いますよ」と言ってました。ゴンザレス氏は、「文化」というのは単に売れりゃいいってものでもない、と言いたかったのかもしれません。南さんは、「それはそうなんだけど、ただ、最近のファッションもどこがいいのかよくわからないよ」と言ってました。

私は、南さんの発言を聴いて、本や音楽やファッションといったような「文化」が時代を作っているという認識自体がもう通用しなくなっているのではないか、と思いました。たとえば、若い世代を代表する批評家(といっても団塊ジュニアですが)・東浩紀氏は、大塚英志氏との対談の中で、そんな状況を「データベース消費」という言葉で表現していました。

前近代では家族との関係が基本だった。つまり小さな物語しかなかった。ところが近代では、地域共同体や家族といった「小さな物語」の世界が崩れて、国家レベルの「大きな物語」が登場する。しかし、ポストモダンではその「大きな物語」も崩壊して、文化的なデータベースにリンクして自分の人格を形成するという方向になってきた。
(大塚英志+東浩紀 『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)


つまり、「自分」とか「人間」とかいったモデル(主体)は必要なく、また、「どう生きるべきか」とか「この社会はどうあるべきか」とかいったような人生観や世界観のような「小さな物語」や「大きな物語」も必要とせず、人はただ文化資本が提供するデータベースにリンクして自己イメージを形成し、「興味のあるもの」に生理的に反応するだけのような、そんな無機質な社会になったのだと言うのです。東氏は、それを別の言い方で「動物化」とも言ってます。明治時代、学生の間では「煩悶」という言葉が流行ったそうですが、もはや「自分とはなにか」と自分の頭で煩悶するなんてことはなくなったのでしょうか。この高度情報社会では既にさまざまな個人情報がひとり歩きしていますが、実際に私達も、そのひとり歩きした個人情報のイメージに規定されている自分を実感することはよくありますね。そして、そこにある物語は、単なる定型=ステレオタイプなものでしかないのです。南さんのように、自分らしいこだわりも愛着も必要ないのです。

話を大きくすれば、ひとは無意味なものでも感動できてしまうのだ、文化とは結局のところ脳の生理的反応のことなのだ、というパンドラの箱が開かれたんだと思います。たとえばいままで宗教的な悟りだと考えていたものが、ドラッグによっても実現可能だと分かってしまう。日本のオタク系文化もアメリカのハリウッド映画も、規模や見え方こそ違うけれどその基本的な変化は共有していて、オタクであれば萌え要素の組み合わせと物語の定型によって、ハリウッドであれば視聴覚的な刺激と物語の定型によって、かつて「感動」と呼ばれていたもののかなりの部分まで置き換えることができる、そういう信念のもとに動いている文化です(略)

南さんの発言もそういった時代の空気を感知した中から出てきたものではないでしょうか。加藤和彦さんも亡くなる前に、「もう世の中は音楽を必要としてないのかもしれない」と言っていたそうですが、それも同じような気持だったのかもしれません。そして、そういった「データベース消費」の時代の空気とネオリベラリズム(市場原理主義)を支える心性は見事に波長が合っているような気がしてなりません。それが今の時代というか、今の若者達のリアルな風景なのですね。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.11.08 Sun l 文化・芸能 l top ▲
秋はどうして人をメランコリックな気分にするのでしょうか。若い頃はこの季節になるとよく胸がキュンとしたものです。胸がキュンとするのは、主にフェニルエチルアミンという脳内物質が分泌するからだそうですが、では、そういった脳内物質の分泌と気温や湿度はなにか関連があるのだろうかと、身もふたもないことを考えたこともありました。

日頃は、横浜なんてただの地方都市で、お行儀の悪いブルーカラーの街じゃないかなんて悪態ばかり吐いているくせに、この季節、夕暮れの横浜の街を歩いていると、「横浜っていいな〜」と思ったりするのです。人生は思い出ですから、こうして秋の夕暮れに横浜の街を歩いたことも、やがてどこかの老人介護施設のベットの上で思い出すことがあるのかもしれません。

2009馬車道まつり1

2009馬車道まつり2

ちょうど今日から「馬車道まつり」で、関内ホールの前に人だかりができていました。なんだろうと思ったら、10月31日は「ガスの日」とかで、日本で最初にガス灯がともったこの日を記念して、ガス灯の点灯式が行われていたのでした。そのあと、泰地虔郎とトワイライトセッションという地元のおじさんグループの街角ライブが行われていましたが、MCの中で、当時はプロパンもなかっただろうし、ガス灯のガスはどうしてたんだろう?と言ってました。たしかに言われてみればそうですね。それで、帰ってネットで調べたら、既にガス管が通っていてそれでガスを送っていたのだとか。ちなみに、1870年(明治5年)9月に日本で最初のガス工場を造ったのは、あの「高島易断」で有名な高島嘉右衛門です。伊勢山の下の石炭倉庫跡(現在の中区花咲町の本町小学校)にガス工場があり、そこからガスを送っていたそうです。

みなとみらい1.20091031

みなとみらい2・20091031

そのあとはいつものように、みなとみらいを通って横浜駅まで歩きました。週末のみなとみらいはどこもカップルばかりです。みんな手をつないだりして仲がよさそうです。でも、そうやってまだ人の心が移ろいやすいものだということを知らないうちが華かも、なんて意地の悪いことを考えながら汽車道の入口に立ったら、薄明かりの中からこれでもかと言わんばかりにカップルが歩いてくるのです。まるでどこからか湧いて出てくる蟻の行進みたいでした。さすがのおじさんもその不気味さに気圧され、汽車道を歩くのをやめてそそくさと帰ってきました。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.10.31 Sat l 横浜 l top ▲
ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜

ずっと忙しくてなかなか時間がとれなかったのですが、やっと今日、みなとみらいのワールドポーターズのワーナー・マイカル・シネマズで「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜」を観ました。

ところで、最近の映画館にはいろんな割引制度がありますが、私に該当するものはほとんどありません。女性は毎週水曜日が1000円、どちらか50才以上の夫婦ならひとり1000円、60才以上も1000円、また、高校生は3人以上のグループならひとり1000円などのサービスがありますが、いづれも対象外です。強いていえば、毎月1日の1000円均一ぐらいですが、その日はどこも混雑していてゆっくり映画を観る雰囲気ではありません。まして、私のようなトールサイズの人間は、座席の両サイドが埋まっていると、途中で足がしびれて映画を観るどころではなくなるのです。

今日などは、平日の午後だったということもあるのか、それこそ数えるほどしか観客が入っていませんでしたが、見渡すとみんなそれぞれ割引に該当するような人達ばかりでした。もしかしたら正規の料金(1800円)で入っているのは自分だけじゃないかと思ったら、なんだかバカらしい気持になりました。

さて、「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜」ですが、監督が「遠雷」や「サイドカーに犬」の根岸吉太郎、脚本が「ツィゴイネルワイゼン」や「セーラー服と機関銃」の田中陽造となれば、いやが応でも期待せざるをえません。しかし、残念ながらその期待は裏切られてしまいました。原作に忠実だった方がよかったんじゃないかと思いましたが、全編これ予告編という感じで、散漫な感は否めませんでした。”如何にも”のような映画ですが、ただ”如何にも”で終わっている感じでした。

「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」
「女には、幸福も不幸も無いものです」
「そうなの? そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男の人は、どうなの?」
「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」


こんな太宰のアフォリズムにイカれるのもわからないでもありませんが、個人的にはこの台詞が出てきただけで興ざめでした。太宰一流の韜晦(とうかい)に惑わされて、「太宰読みの太宰知らず」みたいなところがあったのかもしれません。

また、松たか子はまだしも、浅野忠信と妻夫木聡にはどうも違和感を禁じえませんでした。きつい言い方をすれば、彼らが太宰が生きた「戦後の混沌とした時代」を演じるのは無理があるように思いました。

太宰が「すごい」のは、敗戦により価値観が転倒し、焼け跡の中で国民が空腹を満たすことだけに汲々としていた時代に、ひとり生きる哀しみを抱え、ただ死ぬことだけを考えて生きていたということです。それが太宰の文学なんですね。しかし、この映画からはそういった太宰の「すごさ」が伝わってきませんでした。「耐える女」なんてどうでもいいことなのです。それが「美しい愛の物語」だというのはただの幻想です。恐らく太宰にとってもどうでもいいことだったのだと思います。

かろうじてラストシーン(写真)が救いだったように思いますが、でも、やはりこの映画に1800円は高いと思いました。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.10.29 Thu l 文化・芸能 l top ▲
もう酒井法子のことを書くのはやめようと思ったのですが、公判での「介護の勉強をしたい」発言についてひと言。これで打ちどめにします。

彼女の発言に対して、介護の現場で「戸惑い」や「反発」の声があるのは当然でしょう。そもそも介護の仕事をするのに、どうしてわざわざ4年制の専門学校の通信教育を受けなければならないのかという疑問もあります。通常は30時間の実習を含めた130時間の研修を受けて、ヘルパー2級の資格を取得し、あとは現場で実務経験を積んで、介護福祉士の国家試験に挑戦したりケアマネージャーをめざしたりするのです。少なくとも酒井法子と同じくらいの年齢で、介護の仕事に就く場合、そういったコースをたどるのが一般的です。もっとも、酒井法子の場合は、「仕事がしたい」ではなく「勉強がしたい」というところがミソなのかもしれませんが。

私はほとんど朝しかテレビを観ないのですが、先日のフジテレビの「どーも☆キニナル!」で、酒井法子の「介護の勉強をしたい」発言について、コメンテーターのお笑い芸人(名前は不明)が、「実際に介護をやっている人達からはホントに介護の仕事をわかっているのかというような疑問の声もありますね」と批判めいたコメントをしていました。すると、フジご用達の芸能レポーター・前田忠明が、「いや、それは本気ですよ」とやや感情的とも言えるような言い方で、件のお笑い芸人の発言を封印する場面がありました。

私はその場にデヴィ夫人がいたら面白いのにと思いましたが、案の定、今日の「どーも☆キニナル!」で、デヴィ夫人は酒井の発言について、「なんだか作為的な気がしてなりませんわ」と言ってました。もっとも、その発言も西山喜久恵アナの「作為的な」横やりですぐにかき消されてしまいましたが。

そう言えば、酒井法子がまだ勾留されていたとき、サン・ミュージックの相澤秀禎元会長のもとに、酒井本人から反省している旨の手紙が届いたとして、さもうれしそうに相澤元会長がインタビューにこたえているシーンがやはりフジテレビで放映されていましたが、そのとき、顔は出ていなかったものの、インタビューしている声はあきらかに前田忠明でした。このように酒井の事件に関して、前田忠明はサン・ミュージックと一体となって、酒井反省のイメージ作りにひと役かっている気がしてなりません(狙いは酒井法子の独占インタビューとか?)。

そもそも酒井を解雇した元所属プロダクションの元社長らが未だに彼女の周辺をうろついていること自体、おかしな光景ですね。それは、14才のときから自宅に住まわせて面倒をみてきた親心だと言うのですが、私に言わせればよく言うよという感じです。要するに、商品として金の成る木にするために「自宅に住まわせて面倒をみてきた」だけで、家庭的にめぐまれない子供を里親としてめんどうをみてきたわけではないのです

今回の「介護の勉強したい」発言も相澤元社長らのアドバイスによるものだそうですが、下衆の勘繰りで言わせてもらえば、公判対策であるとともに、どうも「復帰」への地ならしの意図もあるように思えてなりません。そして、そういった芸能界のうさん臭さを補完しているのが前田忠明ら芸能レポーター達なのでしょう。

意地の悪い見方かもしれませんが、私は、クスリをぬくために逃亡したり、クスリの入手先の情報が入った(?)携帯電話を壊して捨てたりという、酒井法子のシロウトとは思えないしたたかさが、この「介護の勉強したい」発言にもうかがえるような気がしてならないのです。

>>魔性

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.10.28 Wed l 文化・芸能 l top ▲
今日、インフルエンザの予防接種を受けました。といって、新型インフルエンザではなく、季節性のインフルエンザの方です。年2回健診を受けている病院で接種してもらいました。病院の話では、今年はインフルエンザに対する関心が高い上に、季節性インフルエンザのワクチンの供給量も例年より少ないため、初回の入荷分の予約をとったら、予約が殺到して30分で打ち止めになったのだとか。

最近は問合せの際、「新型」と区別する意味で、インフルエンザの頭に「季節性」をつける患者さんも多くなったそうで、「季節性インフルエンザ」という言い方もすっかり定着したみたいと看護師さんが言ってましたが、言われてみればたしかにそうですね。ちなみに、マスクも先日ネットで300枚買いました。私は花粉症でもあるので、マスクの確保だけは怠りないのです。

先週は秋の定期健診も受けたし、前立腺でも別の病院に通っていますので、なんだか毎週のように病院に行ってる感じです。

前立腺の方は「少しぶり返している」そうで、再び1週間抗菌剤のクラビットを飲みました。また、この2ヵ月ずっとハルナールを飲んでいましたが、効果が乏しかった(?)ので、先週からユリーフという新しい薬に代えました。ドクターの話では、ユリーフの方が「強力」とのことでしたが、そのためか、お腹をくだすことが多くて難儀しています。特に外出するときは気が気ではなく、万一のときのために予備のパンツまで持ち歩く始末です。情けないデス。

これで腎臓の石が転がり落ちて、尿路結石なんてことになったらどうすればいいんでしょう。今までのパターンからすれば、ぼつぼつその時期ではあるのですが。「歌謡曲だよ、人生は」というオムニバス映画がありましたが、さしずめ今の私は「泌尿器科だよ、人生は」って感じですね。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.10.24 Sat l 健康 l top ▲
よくブログについてテクニックなるものを紹介している文章がありますが、大半は、どんなタイトルにすればいいか、本文にどうキーワードを配置すればいいか、被リンク(外部リンク)をもらうにはどうすればいいかなどといった、SEO、つまり検索エンジンで上位に表示されるためのテクニックであって、いわゆる「文章読本」でもなければ書く内容に関するものでもありません。それでは本末転倒したせこいブログやあざといブログが氾濫するのもむべなるかなと思います。もちろん、そのテクニックにしても、高度なアルゴリズムに基づいて作られている検索エンジンからみれば、素人の浅知恵、下衆の勘ぐりのようなものです。

たしかに、ブログをつづけるのはかなりしんどいものがあります。誰に?なんのために?なんて考えたら、もう書くのがいやになってきます。あとで読み返して自己嫌悪に陥り、思わず削除したい衝動に駆られることもしばしばです。

そんな経験からいえば、永井荷風と林真理子さんのつぎのような言葉がブログを書く上で参考になるように思います。

『断腸亭日乗』を書いた永井荷風は、日記について、こう語っていたそうです(新潮社『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』より孫引き)。

「日記というものはつまらない記事のあいだにときどき面白い箇所がある。そういう風にしなくては味がありません」(中村光夫『≪評論≫永井荷風』)


また、林真理子さんは、以前『編集会議』(休刊)という雑誌のインタビュー・「私のエッセイ作法」(2003年11月号)の中で、エッセイストになる5つの条件をあげていました。それによれば、第1が「意地の悪さ」、第2が「好奇心」、第3が「文章力」、第4が「自腹を切ること」、そして、第5が「ひとに嫌われても平気でいられる強さ」だと。

要は、テクニックではなく、何を書きたいか、そして、それをどう書くかですね。もちろん、文章を書くことは、日本語の文法や自分のボキャブラリーの制約の中で書くわけですから、それ自体は”虚構”です。でも、”虚構”だから、自分が表現できるとも言えます。

荷風が言うように「つまらない記事のあいだにときどき面白い箇所がある」、その程度でいいのではないでしょうか。そう考えれば、いくらか肩から力がぬけるような気がします。

これはブログに限らず商用サイトも同様で、検索エンジンで上位表示されるためにやたらテクニックに走り自己撞着に陥っている人達がいますが、内容(商品)がよければおのずとアクセスが集まり、結果的にSEOの効果も見込めるようになるのです。このようにみずからのはからい(自力)ではなく、他力の世界に身をまかせるのが一番の近道だというのは、SEOについても言えるように思います。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.10.22 Thu l ネット l top ▲
加藤和彦

加藤和彦さんの自殺はショックでした。もちろん、加藤さんは私達より上の世代なので、「帰ってきたヨッパライ」も必ずしも同時代的に聴いていたわけではありません。しかし、フォークル(フォーク・クルセダーズ)の音楽が内包する社会性やその自由なスタイルをたどることで、来るべき大学生活に思いを馳せ、少し社会の窓がひらかれたような気がしたものです。フォークルが解散して、北山修さんが大学に戻り精神科医をめざしたというのもなんだか「カッコいいな」と思いました。

私達は全共闘運動に乗り遅れた世代なので、鴻上尚史さんの『ヘルメットをかぶった君に会いたい』(集英社)ではないですが、この一大ムーブメントから生まれた「旧来の文化的・思想的規範に対する、新たな対抗文化」(絓秀美著『1968』)によけいあこがれる気持がありました。自前のスタイルにこだわるというのは、既成の権威を否定し、与えられたレールには乗らないということで、それはそれで、当時としてはすごくラジカルなことだったのです。

そのあとのサディスティック・ミカ・バンドもカッコよかったし、また、二番目の奥さんの安井かずみさんが亡くなったとき、いかにも加藤さんらしい穏やかな語り口で、クリスチャンだった安井さんのことを話していた姿が今でも印象に残っています。

私達にとっても、”うつ”も含めて加藤さんが直面した問題は決して他人事ではありません。むしろ、ついにそこまできたかという感じさえあります。なんだか今までのように「死にたいやつは死なせておけ、俺はこれから朝飯だ」と言えない自分がいるのです。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.10.19 Mon l 文化・芸能 l top ▲
坂口安吾は、「恋愛論」の中で、「恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ」と書いていましたが、その前に恋愛に免疫ができて耐性がつくことの方が不幸な気がします。

たしかに、好きで好きでたまらずいつも幻影を求める気持は若いときでも「大人」でも変わりがありませんが、失恋したあとの気持は自分でもびっくりするくらい違うものがあります。どこかでさめている部分があるのです。よく復縁を求めて相手を刺傷したりストーカーになったりする人がいますが、あれは恋愛感情というよりなにか別の現世的な打算がからんでいるか、精神病理学上の問題があるように思えてなりません。実際はむしろ逆ですね。

人間には学習能力もありますし、慣れもあります。それに、分別もできます。別に泣き明かしたわけでも悶々として一睡もできなかったわけでもなく、翌朝、目をさまして部屋の窓をあけたら朝の澄んだ空気がとてもさわやかに感じました。どうしてさわやかなんだと思いましたが、これが「大人」の不幸というものかもしれません。

そして、いつものように「恋愛論」を読んでいる「大人」の自分がいました。

 人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。(略)
 人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。


それにしても、安吾や太宰の書いたものを同時代的に読むことができた人々は幸せですね。私もそんな”素朴な時代”に生きたかったなとしみじみ思いました。今の時代は恋愛に限らず何事においてもややこしすぎますね。

>>恋をする

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.10.16 Fri l 日常・その他 l top ▲
ヴィヨンの妻

今年は太宰治の生誕100年を記念して、太宰作品の映画化が相次いでいますが、今日も「ヴィヨンの妻」と「パンドラの匣(はこ)」が同時に封切りでした。

今日は病院に行ったのですが、診察の順番を待つ間に原作の『ヴィヨンの妻』(新潮文庫)を読みました(青空文庫「ヴィヨンの妻」)。『ヴィヨンの妻』は何十年ぶりかで読みましたが、やはり若い頃に読んだときと今とでは全然印象が違います。

太宰本人を投影したとおぼしき夫の「大谷」が、なじみの飲み屋で店の仕入れ代金5千円を盗んだため、店の「おかみさん」と「ご亭主」が家にねじ込んできて、それに語り手である妻の「私」が応対する場面は、私も笑いをこらえることができませんでした。泌尿器科の待合室は、圧倒的に中高年の男性が多いのですが、みなさん「なに、この人?」みたいな感じで私の方を見ていました。

しかし、笑いをこらえることができなかったのは、私だけではないのです。

(略)わけのわからぬ可笑しさがこみ上げて来まして、私は声を挙げて笑ってしまいました。おかみさんも、顔を赤くして少し笑いました。私は笑いがなかなかとまらず、ご亭主に悪いと思いましたが、なんだか奇妙に可笑しくて、いつまでも笑いつづけて涙が出て、夫の詩の中にある「文明の果の大笑い」というのは、こんな気持の事を言っているのかしらと、ふと考えました。


坂口安吾は、太宰の道化を「M・C(マイ・コメディアン)」と呼んでいましたが、笑いも太宰作品の大きな特徴ですね。もはや笑うしかないのでしょう。

また、ラストの自虐をきわめたような会話の中に、そこはかとない哀しみが漂っている気がするのは、『ヴィヨンの妻』が玉川上水で「スタコラサっちゃん」こと山崎富栄と入水自殺した前年の1947年に書かれた作品だからかもしれません。ちなみに、同じ1947年には『斜陽』が、自殺した1948年には『人間失格』が書かれています。これをもって太宰は永遠の「スタア」になったのでした。

 夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは当たっていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんてい書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけど、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事を仕出かすのです」
 私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。私たちは。生きていさえすればいいのよ」
と言いました。


誤解する人も多いのですが、『ヴィヨンの妻』には”希望”なんてのはないのです。ただひとりよがりな生きる哀しみがあるだけです。

作中、「私」が二人の子供である「坊や」のことを、「わが子ながら、ほとんど阿呆の感じでした」と表現する箇所がありますが、実際に太宰に障害をもった子供がいたことを考えれば、こういった悪趣味ともいえるようなユーモアには、「家庭の幸福は諸悪の根源である」と嘯いた(うそぶいた)太宰の精一杯の虚勢が込められているように思いました。そもそも妻の「私」がけなげであればあるほど、夫の”ダメ亭主ぶり”が際立つこの小説自体、太宰一流の虚勢だと言えなくもありません。坂口安吾が、「太宰治情死考」で書いているように、太宰はホントは「サっちゃん」を軽蔑していたのです。にもかかわらず、「サっちゃん」と心中するのでした。もしかしたら、『ヴィヨンの妻』の「さっちゃん」も軽蔑していたのかもしれません。

坂口安吾は、人間には「どうしても死なゝければならぬ、などゝいう絶体絶命の思想」はなく、太宰の自殺も「芸道人の身もだえの一様相」のようなものだろうと書いていましたが、もとより人間というのは、生きる哀しみで死を選んだりするほどヤワな存在ではないのです。「死にたい」と思うことと実際に死ぬことは、まったく次元の異なる問題です。

金を無心に来た友人に「人間ほんとうに食うに困った時は、強盗でも何でもやるんだな」と言った吉本隆明さんではないですが、にっちもさっちもいかなくなったらそれこそ強盗でも泥棒でもやって、地べたを這いつくばってでも生きていくのが人間ではないでしょうか。そうやって人生と格闘すべきだ(「不良少年とキリスト」)という坂口安吾に、そして、「人非人でもいいじゃないの」と言った『ヴィヨンの妻』の「さっちゃん」に、私は共鳴しますし、そこに人生の真実があるのだと思いたいですね。もっとも、私自身、そう言えるまで何十年もかかったのですが。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.10.10 Sat l 文化・芸能 l top ▲
無印ニッポン

堤清二氏と三浦展氏の対談『無印ニッポン 20世紀消費社会の終焉』(中公新書)を読みました。

最近、高級ブランドのヴェルサーチが事実上日本から撤退するというニュースがありましたが、ヴェルサーチだけでなく、他の高級ブランドも店舗の閉鎖や計画の見直しなどがつづいているようです。変われば変わるもので、今やこれみよがしにブランドのバックをもっているのは「カッコ悪い」「頭が悪そう」というようなイメージさえあります。これはファッションだけでなく、ベンツやBMWに乗っているのも同じですね。

”リーマンショック”がきっかけだったとはいえ、人々は”お仕着せの消費”を否定し、”消費の主体”たるみずからを再び取り戻そうとしているのかもしれません。そして、そんな「20世紀消費社会」の終焉を先取りしたものとして無印良品があったのだと、無印良品の生みの親とそのイデオロギーを推進した二人は主張するのでした。ただ、無印良品の鬼っ子とも言えるユニクロに対してのつっこみは、当然ながらやや甘いものがあるように思いました。「20世紀消費社会」の先にあるのがユニクロだというのではシャレになりません。

一方、”消費の平等化”によってもたらされた郊外化=「ファスト風土化」については、この本でも大半を割いてその”罪”が語られていました。

三浦氏は、なぜ大型店がいけないかについて、アメリカで聞いた「シチズンシップ」という言葉を使って説明していました。「シチズンシップ」というのは、「地元への愛着や誇り、責任」という意味だそうです。つまり、郊外化=「ファスト風土化」によって、駅前の商店街にある地元密着の個人商店がなくなるのは、「地元への愛着や誇り、責任」が失われることを意味するのだというのです。もちろん、それは地方に限った話ではありません。三浦氏は、表参道ヒルズや六本木ヒルズやJRの”駅なか”も「都市のイオン・モール」だと言って批判していました。

三浦◎(略)パッサージュ(街路)をどんどんなくしていって、みんなパッケージの中に閉じ込めるというモール型手法が都市にまで及んでくるのは問題だと思う。都市はパッサージュ型でなければいけないんです。駅ビルもいまは駅地下、駅中開発によって、どんどんパッケージになってしまった。JRも悪い。駅から出さない。全部駅の中ですませるという、開発の仕方になっている。そういうふうになっていくと、都市文化の衰退につながると思います。


また、堤清二氏は、三浦氏の「シチズンシップ」と同じような意味で「ローカリティ」という言葉を使っていました。

◎(略)個人の誇りというのは「人と違っても俺は大丈夫だ」ということでしょう。しかし、他人と違うということに耐えきれるのは、ごく少数の人だけでしょう。ふつう、どんな人でも、ローカリティに支えられて、その上で個性を保っていると思うんです。そのローカリティの部分が根こそぎになって、浮遊してしまっているのが、現在の日本人ではないでしょうか。


私は田舎(故郷)がいやでいやで仕方なく、田舎にいた頃、「田舎はどういう人間が住みやすいか」ということばかり考えていました。どうして田舎がいやだったかと言えば、田舎には決まった生き方しかなく、生き方の選択肢がまったくなかったからです。だから、私達のような地方出身者にとって、都会(=東京)というのは「解放」だし「自立」なのです。もちろん、故郷を離れて生活するのは、さみしいことやつらいことも多いのですが、だからこそ「がんばっている自分」をダイレクトに感じることもできるのです。

私は、寄る辺なき生は寄る辺なき生でいいじゃないかという考えです。そんな孤独に耐え絶望に耐えて生きていくことが人生じゃないかと思っています。それは、「強い」とか「弱い」とかいうことではありません。だから、私にとって街というのは、そんな自分の人生を投影するようなきわめて観念的なものとしてあります。

私が個人商店の街が好きなのは、そこにはいろんな人がいていろんな人生があるからです。そういったいろんな人やいろんな人生に自分自身や自分の人生を映すことができるからです。人生にはうれしいことや楽しいこともあるけれど、それ以上に挫折や悲哀があります。そんないろいろな人生があるんだということがわかるだけでもどんなに支えになるでしょう。郊外のショッピングセンターではそういった人生を感じることはできません。田舎と同じようにやはりひとつの決まった生き方しかないのです。

ショッピングモールが掲げる”おしゃれな生活”や”かがやく生活”などといった、そんな空疎な「生活」のために人間は生きているのではありません。九州では生活することを「いのち(命)きする」といいますが、いのちきすることは、もっと個別的でもっと具体的でもっと泥くさいものです。お二人がいう「フレンドシップ」や「ローカリティ」もそういった意味で使われているのであって、単なるジモト(地元)意識の称揚や古き良き共同体(的日常)の郷愁ではないことは言うまでもありません。

なぜ個性が大事かというと、人生にはいろんな生き方がありいろんな幸せの尺度があるからです。街が殺されるというのは、そういった個性的な生き方が殺されるということであり、ひとつの決まった生き方を強要される息苦しい社会になるということなのですね。それは、ある意味で「20世紀消費社会」の当然の帰結だったのかもしれません。

>>渋谷と西武
>>港北

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.10.07 Wed l 文化・芸能 l top ▲
TOTSZEN BAKERS KITCHEN
     (http://area.rehouse.co.jp/r-toyoko2/24より)

朝、目がさめたらお囃子が聞えてきました。それで初めてこの土日がお祭りだったことを思い出しました。お祭りにはやはり和菓子なのか、近所の和菓子屋さんもいつになく賑わっていました。また、すれ違う人達で手にススキをもっている人が目につきました。どこかでススキを配っていたのかもしれません。

しかし、私は、和菓子ではなく、駅の近くにある「TOTSZEN BAKER'S KITCHEN」(写真)でクロッカンと大分アンバターを買ってきて、昼食を兼ねた遅い朝食にしました。 「TOTSZEN BAKER'S KITCHEN」は知る人ぞ知るパンの名店です。ネットでも大変な評判ですね。

初めて店に入ったとき、「大分アンバター」や「大分えんどあん」などパンの名前に「大分」という地名が入っているのでびっくりしました。聞けば、大分の「なな瀬」という和菓子屋さんの餡を使っているからだそうです。しかし、私は「なな瀬」という和菓子屋さんを知りませんでした。大分の友達に聞いても「知らない」と言うのです。どこなんだろう、ずっと気になっています。

大倉山の駅の近辺は昔ながらの路地が入り組んでいて、そういった路地の奥にはパン屋さんだけでなく、おいしいケーキ屋さんやレストランなども点在しています。また、建築家の隅研吾氏の出身地だからというわけでもないのでしょうが、大倉山には専門家も注目するような建築物も多くあります。いちばん有名なのは、なんといっても大倉山ヒルタウンでしょう。築30年以上経つにもかかわらず、未だに5千万円以上の値が付き、物件が出るのを待っている買い手が大勢いるそうです。それくらいあこがれのマンションなのですね。

また、最近では駅の近くに、世界的に著名な建築家・妹島和世氏が設計した「大倉山の集合住宅」というのができました。完成したときから、建築家の卵なのか、若い人達が入れかわり立ちかわりやってきて写真を撮っていました。建物は極力装飾を排したコンクリートの曲面でおおわれ、敷地内は土がむき出しになったままなので、私はまだ未完成なのかと思っていたら、それで完成でした。ちなみに、家賃は18万5千円だとか。でも、どう見ても実用性とは程遠いデザインなので、実際は住みにくそうですね。既に住んでいる人もいるようで、窓にカーテンをしていますが、これほどカーテンが似合わない建物はありません。はたから見ると生活感はまるで感じられず、不思議な建物です。今日も若い夫婦(?)が不動産会社のチラシを手に建物を見ていましたが、女性の方が顔をしかめていたのが印象的でした(笑)。

このように大倉山は立地条件から言っても、(決してオーバーではなく)自由が丘のような個性的な店が集まる魅力的な(その意味ではおしゃれな)街になる要素は充分備えているように思います。それだけに「もったいないな」といつも思いますね。なんといっても駅前のバス通りの舗道の狭さが致命的なのです。これは、バス通りが中央線を引けないほど狭いにもかかわらず、無理して交互通行にしているからです。そのために舗道が犠牲になっているのです。三浦展氏も書いていましたが、いい商店街というのは、まず舗道が広いこと、これが第一条件です。”歩行者優先”の考え方がなければ、商店街として発展が望めないのは当たり前ですね。

しかも、人がすれ違うのもやっとの狭い舗道であるにもかかわらず、前から来る人間をせき止めるように横に並んで歩いている無神経な人も多いため、私のように毎日舗道を利用しなければならない人間はいつもイライラさせられます。そんな状態では立ち止まって買物などする気になるはずもなく、うっとうしい舗道をすりぬけるのに神経はいっぱいなのです。バス通りではコンビニさえ生き残れないというのもよくわかりますね。

商店街の振興のためには、プレ・ヘレニズム様式なる建物で表通りを統一するより、まずバス通りを終日一方通行にして舗道を広げるほうが肝要だと思いますが、しかし、肝心な商店街があまり熱心ではないようです。実際に商店街の人と話をしたこともありますが、「めっそうもない」という感じでした。なんとももったいない話ですね。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.10.03 Sat l 横浜 l top ▲
石田純一   

芸能ネタを。

朝、テレビをつけたら、デヴィ夫人がえらい剣幕で「こんなのおかしいわよ!」と叫んでいる場面が目に飛び込んできました。なんだろう?と思ったら、石田純一とプロゴルファーの東尾理子が、ギリシャのエーゲ海で”公開プロポーズ”したことに対して怒っていたのでした。

デヴィ夫人曰く、”公開プロポーズ”なんて要するにプライバシーを切り売りしているだけだ。プロポーズはもともと二人だけのもので、公開するようなものじゃない。石田純一のコメントはすべてがわざとらしくて計算されたものでしかないと。

ごもっともですね。私も”公開プロポーズ”を見るにつけ、村西とおる監督ではないですが、芸能人というのはやはり「カタギ」ではないなとあらためて思いました。

石田純一にすれば、今更トレンディドラマでもないでしょうから、そうやってみずからのプライバシーを切り売りすることで、バラエティやイベントの引き立て役として芸能界で生きていくしかないのかもしれません。生産手段をもたないプロレタリアはみずからの労働力しか売るものがないと言ったのはマルクスですが、芸が枯渇した芸能人はもはやプライバシーを売るしかないのでしょうか。芸能人というのは並みの神経ではできない職業であることはたしかですね。

フェラーリに乗りつづけるために石田純一も必死なのでしょうが、ただ、テレビの前に鎮座するのが市民社会の公序良俗を旨とする「お茶の間の論理」であることを考えれば、そうそう計算どおりにいくとは限りません。一歩間違えば、プライバシーを切り売りする「いやらしさ」が鼻につく場合だってあるのです。

ほかならぬ私自身も、今まではこの22歳の年の差カップルにみずからを重ねあわせてひそかに期待するものがありましたが、今度は一転して”理子パパ”の気持になっている自分がいます(笑)。なんだか世間知らずの東尾理子は名うての結婚詐欺師に籠絡され、一途な気持をいいように利用されている気がしないでもないのです。

ホントにこのまま順調にいくんだろうか、もしかしたらそのうち目がさめてひと波乱あるのではないかと期待半分で思ったりしますが、しかし、そうなればそうなったでしばらくはマスコミの関心を引くことができるわけで、石田純一はどっちに転んでもタダでは起きないようになっているのですね。

いづれにしても、バラエティ番組ではややずれた(KYな)存在として重宝されているデヴィ夫人ですが、今回の”公開プロポーズ”に関しては至極マトモだったように思います。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.09.30 Wed l 文化・芸能 l top ▲
歩け、歩け

今日はいつもと散歩コースを変えてみました。

最寄駅とは反対方向に歩いて、鶴見川の土手に出ると、いつも上流の新横浜の方に散歩するのですが、今日は反対の下流の方へ歩くことにしました。土手を下ると河川敷に遊歩道がのびており、既に川岸には背丈ほどのススキの穂が風にゆれていました。遊歩道は鶴見川に沿って大きく湾曲し、20分くらい歩くと、やがて河川敷にある自動車学校のコースの先に東横線の鉄橋と大綱橋が並んでかかっているのが見えてきました。いつもの見慣れた風景をこうして下から見ていると、午後の陽ざしを浴びて鉄橋の上を走っている赤いラインの入った東横線の車両がなんだか新鮮に見えました。

いったん土手をのぼって大綱橋を渡り、今度は対岸の土手を折り返して上流に向かって歩くことにしました。対岸の綱島側は、駅からも近く土手のすぐ下はマンションなどが立ち並び、土手もコンクリートで整備されていることもあって、大倉山側と違って人が多くて賑やかでした。なんだか「フーテンの寅さん」の冒頭にでてくる荒川の土手みたいで、昼寝をしている人、読書をしている人、おしゃべりをしているカップル、それに河川敷ではバーベキューをしているグループもいました。また土手の上はジョギングや犬の散歩をする人やベビーカーを押して散歩する家族連れなどがひっきりなしに行き交っていました。

堀田善衛の小説に『広場の孤独』というのがありますが、たとえば新宿や池袋の人ごみの中にいるときの孤独感と、こうして郊外ののんびりとした時間に中にいるときの孤独感を比べると、私はやはり後者の方がきつい気がします。ときに底なしの孤独感のようなものを抱くことさえあります。

歩け、歩け、そんな感じでした。歩いていると、いろんなことを考えいろんな思いにとらわれますが、同時に歩くことでふり払うものもあるように思います。荷風もこうしてなにかをふり払うために歩いていたのかもしれません。

しばらく歩いていると、正面の陽ざしが徐々に西の空に傾いていくのがわかりました。自転車で横をすりぬけていった外人が、先の方で自転車を停めて、陽ざしにカメラを向けてシャッターをきっていました。

やがて電機メーカーの物流センターの先に新羽橋が見えてきました。ここが今日の散歩の終点です。歩数を確認したら、1万5千歩を越えていました。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.09.27 Sun l 健康 l top ▲
ヘブン


川上未映子の新作『ヘブン』(講談社)を読みました。

斜視が原因で、学校で「ロンパリ」と呼ばれ暴力的ないじめにあっている14歳の「僕」が、四月の終わりのある日、<わたしたちは仲間です>という手紙を受け取るところからこの物語ははじまります。ふで箱に小さく折りたたまれて入っていたその手紙は、同じクラスの女生徒「コジマ」からのものでした。彼女もまた汚い身なりが原因で、クラスの女の子達から「ゴミ」などと言われ同じようにいじめにあっていました。

それから二人の手紙のやりとりはつづき、二人の奇妙な友情は深まっていきます。「コジマ」に誘われて、彼女が「ヘブン」と呼んでいる一枚の絵(シャガールの「誕生日」?)を見に美術館に出かけたときの二人は、なんだか「小さな恋の物語」を思わせるような初々しさがあり、それだけにせつなくてやりきれないものがありました。

 それからしばらくしてコジマが泣いているのがわかった。
 声をたてずに顔を少し背けて、ごしごしと目をこすり、手のひらで垂れてくる涙をほおにのばしていた。僕は生温かくなった飲みものの容器を両手でにぎったまま、地面を見ていた。隣で音をたてないように泣いているコジマになにか言葉をかけたかったけれど、その気持が頭のなかをめぐるだけで言葉はうまく見つからなかった。
「色々なことが、あるから」コジマはしばらくしてから小さな声で言った。それから手のひらで顔をもむようにしたあと、きこえるかきこえないかの声で僕にむかってごめんね、と謝った。
「せっかくなのに」コジマは泣き顔をごまかすように、そしてきまりが悪そうに笑って僕を見たけれどまだ泣いてるみたいに見えた。


ところが、そんな弱々しく見えた「コジマ」が、やがて独特な考えをもっていることに「僕」は気づきます。「コジマ」は、イジメの原因になっている「僕」の斜視を「とても好きだ」と言うのです。それは「大事なしるし」だからと。そして、自分が汚い身なりをしているのも、離婚して孤独で貧しい生活をしている父親を忘れないための「しるし」なのだと。

ここでこの小説のキーワードである「意味」が登場します。「コジマ」は、いじめられるのも「意味」があるし、弱いことは悪いことではない、むしろ正しいのだと言います。だから、現実をあるがままに受け入れるべきだと。そうやって試練を乗り越えることで、自分達は弱い立場から強い立場になれるのだと言うのです。「しるし」というのは、そういった”強い意志”をもつための、いわば与件なのでしょう。しかし、いじめを誰にも訴えることもできずただ不条理な現実を嘆くだけの無力な「僕」は、「コジマ」のそんな”強い意志”に次第に齟齬を感じるようになるのでした。

もうひとり、この小説の軸になる人物が登場します。それは、直接手を下すわけではないが、いつも背後からいじめをさめた目で見ているクラスメートの「百瀬」です。彼は、「コジマ」とはまったく逆の考えをもっていました。「僕」がいじめられるのも斜視が原因ではないと言うのです。そして、いじめにもなにか特別な「意味」があるわけではないと。

「べつに君じゃなくって全然いいんだよ。誰でもいいの。たまたまそこに君がいて、たまたま僕たちのムードみたいなものがあって、たまたまそれが一致したってだけのことでしかないんだから」


「意味なんてなにもないよ。みんなただ、したいことをやってるだけなんじゃないの、たぶん。まず彼らに欲求がある。その欲求が生まれた時点では良いも悪いもない。そして彼らにはその欲求を満たすだけの状況がたまたまあった。君をふくめてね。それで、彼らはその欲求を満たすために、気ままにそれを遂行してるってだけの話だよ。(略)」


「コジマ」の”強い意志”と「百瀬」のニヒリズムの間で右往左往する「僕」は、いわば私達の姿でもあるのかもしれません。「良いか悪いか」「善か悪か」といった二者択一的な価値観にとらわれ、ものごとを倫理的にしか解釈できない私達。しかし、現実はいかようにも解釈可能なのです。いじめの原因であった斜視がわずか1万5千円の費用で容易に手術できることを知り、手術を終えて帰宅する途中、目の前の風景がまるで違ったものに見えて感動するラストシーンが、なんだかそれを暗示しているようでした。

一方で、カルト的な宗教がさまざまなイニシエーションを使って人生の風景を違ったものに解釈して見せたとき、多くの若者が狂信的に帰依したのを私達は知っています。私達はこんな危うい人生の現実を生きているのです。「意味」なんていくらでも書き換え可能なのですね。

この小説を作者が影響を受けた永井均教授のニーチェの思想に引きよせて解説したり、あるいは「百瀬」のニヒリズムをドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場する大審問官になぞらえて解説する向きもありますが、むしろ私は、そういった先入観とは無縁な、現代社会の真っただ中で生きる普通の(!)若者達の率直な感想を聞きたいと思いました。それがこの作品の評価のすべてではないでしょうか。というのも、作者がいじめを題材にとったのも、前作までの饒舌体を封印して平易な文体で作品を作り上げたのも、自分の言葉がどこまで若者達に届くかという企図があったように思うからです。

>>「乳と卵」

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.09.21 Mon l 文化・芸能 l top ▲
my Classics!

平原綾香が「Jupiter」を携えて私達の前に現れたときは衝撃的でしたが、新しいアルバム「my Classics!」もその衝撃の延長上にあるようなとても聴きごたえのあるアルバムでした。たまたま今、川上未映子の『ヘブン』を読んでいるのですが、「my Classics!」をかけながら読んでいたら、いっそうせつない気持になりました。

「Jupiter」やテレビドラマ「風のガーデン」の主題歌でおなじみの「ノクターン」は別にして、来月シングルカットされて発売予定の「AVE MARIA」も独自の世界を描き出していて、胸がしめつけられるようないい歌でした。やはり、歌がうまいということは大きな武器ですね。

人生はいつも力強く前向きに走りつづけることができるわけではなく、ときに歩をゆるめ、フッとため息をついて遠くの景色に目をやることがありますが、そんなとき平原綾香の歌を聴きたくなりますね。

当たり前のことですが、歌も文学も心の琴線に触れてなんぼなんだとあらためて思いました。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.09.17 Thu l 文化・芸能 l top ▲
自民党の研究

床屋政談を。

民主党政権の閣僚人事のニュースが飛び交っていますが、天の邪鬼な私は、ふと思い出して、自民党の国会議員でもあった栗本慎一郎氏の『自民党の研究』(カッパブックス)を読み返しました。

これは今から10年前の1999年に出版された本ですが、まさに今の自民党の体たらくを予言しているような、未だ今日的な意味を失っていないアクチュアルな本です。つまり、自民党にとって、今日の状況は既に10年前からはじまっていたと言えるのではないでしょうか。

 ただ強い奴だけ勝ち残れというのなら、簡単なことだ。それは、新しい時代を迎えるということではなく、弱い者を殺すというだけのことなのだ。その結果、強い者もやがて死んでいくことになる。(略)
 新保守の政策が、ただたんに世界的な勝ち組につながるだろう人びとや企業を庇護し、保護し、バックアップするだけだとすれば、勝ち組が誰もいない社会ができあがるだろう。金を持っているがゆえに金が儲かると思い、それを実践していく者は、持っている金が世界的なパニックによって一気に価値を失う危機が来ることを知る。


これが10年前の文章だということを考えれば、すごい予言ですね。これを読むと、まさに小泉政権が自民党の自滅を加速させたことがよくわかります。

小泉政権はアメリカのグローバリズムに拝跪して新自由主義的な政策を打ち出す一方で、靖国参拝を演出してナショナリズムを煽るわけですが、これなども理念の一貫性がないという点では如何にも自民党的だと言えなくもありません。

栗本氏は、自民党というのは「理念なき政治家達」の集まりで、自民党の国会議員達にとって政策は「天から降ってくる」ものでしかなく、それが理念よりも人と人のつながりを重視する「日本型の集団」としての自民党の特質である、と書いていました。自民党にあるのは「政策」ではなくあくまで「権益」であって、「自民党において、政策通といわれる議員のほとんどは、この手の業界の事情に詳しいというだけのことだ」と。なぜなら政策は官僚が作るものだからです。理念なき自民党が自民党であり得たのは、まさに政権与党であったからなのです。

私は懐疑的ですが、仮に二大政党制が定着するとしても、政界再編もあるでしょうから、自民党がその一翼を担うという保証があるわけではありません。私は、このままでは自民党は解党するか、あるいは親米的な(対米従属的な)右翼政党として政界の片隅で細々と生きるしかないと思っていますが、そうならないためにももう一度原点に立ち返って、「保守」とはなにかということを考える必要があるのではないでしょうか。

少なくとも、選挙中から今に至るまで民主党に対するネガティブキャンペーンを執拗に行っている産経新聞の「正論」路線などを「保守」だと勘違いしているようでは未来はないように思います。また、MSNもヤフーもニュースは産経の記事が中心ですが、選挙の顔として麻生首相を担ぎ出した自民党はそういったネットしか見ない若者達の声を「世論」だと勘違いしていたフシさえあります。特に小泉政権以後、こういったアナクロ(アナクロニズム)派に引きずられた自民党が方向感覚を失っていくのは当然ですね。

自民党再生について、世代交代が必要だという声がありますが、こういった没理念的な考え方はいかにも自民党的だなと思いますね。今の自民党にとって必要なのは、まず「保守」とはなにかというしっかりした理念を打ち出し、時代に応じたリベラルで気高い「保守」主義をよみがえらせることではないでしょうか。もっとも、今の自民党にはもうそんな骨のあるリベラル派は残ってないという指摘もありますが。

民主党政権の誕生は、来るべきドル崩壊後の”アジアの時代”に対する、ある意味で「時代的な要請」でもあったように思いますが、このままでは自民党の出番は益々なくなっていき、時代からとり残され過去の遺物と化すのは自明な気がしますね。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.09.15 Tue l 社会 l top ▲
やっと病院に行きました。とっくに薬は切れているのですが、なかなか時間がなくて行けなかったのです。

午前中に行くつもりだったのですが、我慢できずにおしっこをしてしまったため、やむを得ず午後から行くことにしました。と言うのも、おしっこの勢いの検査をするため、おしっこをためてきてくださいと言われていたからです。

おしっこの勢いの検査は、最初にエコーで膀胱にたまっているおしっこの量を測定して、そのあと、バケツのような容器におしっこをするだけでした。すると、おしっこの勢いと時間がグラフで表示される仕組みになっているのです。

検査の結果は、「かなりひどい排尿障害」とのことで、ちょっとショックでした。それで、利尿剤のハルナールをさらにひと月分処方してもらいました。また、次回は前立腺ガンの検査(PSA検査)をしましょうと言われましたが、「あれっ、まだPSA検査をしてなかったんだ?」と思いました。前立腺も通常より大きいらしく、「まだ若いので、これから進行する可能性がありますよ」と言われました。

帰りは地下鉄で新横浜まで行って、新横浜から歩いて帰ったのですが、「ひどい排尿障害」が尾を引いているのか、いつもより身体がだるい気がしてすっかり病人気分でした。

新横浜駅の三省堂書店で、川上未映子の新作『ヘブン』(講談社)を買おうと思ったのですが、既に品切れでした。そんなに売れているのかと思いました。また、そのあと立ち寄った環状2号沿いのソフマップでは、ウォークマンを衝動買いしてしまいました。ウォークマンは半年前に買い替えたばかりなのですが、バージョンアップしたタイプを見ているうちに我慢できなくなったのです。もしかしたら嫌なことを忘れるために、ドーパミンかなにか脳内物質がはたらいたのかもしれません。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.09.09 Wed l 健康 l top ▲
今日、田舎の母から小包が届きました。送り状に「ピオーネ」と書いていましたので、ブドウのようです。ふがいない息子は小包を開ける勇気さえなくそのままにしています。老いた母のことを考えると、すごく責められているような気がしてつらい気持になります。

財産をひとり占めした身勝手な永井荷風は、実家を継いだ弟から絶縁状態におかれていました。そのため、実家に帰ることもままなりませんでした。母親の病状が悪いと告げられた日、荷風は『断腸亭日乗』にこう記しています。

昭和十二年四月三十日。 くもりにて南風つよし。午後村瀬綾次郎来りて母上の病す々みたる由を告ぐ。されど余は威三郎が家のしきみを跨ぐことを願はざれば、出で々浅草を歩み、日の暮る々を待ち銀座に飯(注:原文は旧字)し富士地下室に思ふ


そして、母親が亡くなったときも、臨終に立ち会うこともなく葬儀にも出なかったそうです。しかし、次のような句を詠んで、ひとり夜を泣きあかしたのでした。

泣きあかす夜は来にけり秋の雨
秋風の今年は母を奪いけり

以後、荷風は、母親の形見である裁縫セットを生涯大事にして、戦争で疎開するときも肌身離さず持ち歩いたのだそうです。

荷風のこの気持は痛いほどわかりますね。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.09.08 Tue l 日常・その他 l top ▲
ストリートビュー

グーグルのストリートビューですが、総務省からの要請を受けて、ストリートビューのサイト上に「現在撮影中のエリア」という欄を設け、撮影中の地域の情報を公表することになったそうです。でも、なんだか気休めのような気がしないでもありません。

「現在撮影中のエリア」によれば、神奈川県の「横浜・川崎」が撮影中となっていましたが、私も先日、関内で天井にLadybug2を設置したプリウスに遭遇しました。実物を見ると、たしかに異様な感じがしますね。デジカメで撮影しようと思ったのですが、すぐに信号が青に変わって走り出したため、残念ながらシャッターチャンスを逃してしまいました。

ストリートビューは、民主党の高速道路無料化や農家の戸別所得保障と同じで、まったく無駄なサービスだとしか思えません。グーグルはマイクロソフトを横目で見ながら「(マイクロソフトのように)邪悪にならない」ことをポリシーにしてさまざまなサービスを展開し、結果ネットユーザーから絶大な支持を集め、今日の繁栄を築いてきたわけですが、グーグル自身がマイクロソフトのように「邪悪な存在」となる心配はホントにないのでしょうか。

余談ですが、今回のヤフーとマイクロソフトの検索広告分野の提携によって、検索分野におけるプレイヤーが実質的に二つ(グーグルとマイクロソフト)になるというのは、ネットの多様性ということから考えればそれに逆行するような話ですし、考えようによっては由々しき問題でもあります。しかし、ネットの情報通でそういった視点をもっている人はごく少数です。多くはただ現実を追認することに腐心するばかりで、寄らば大樹の陰なのです。これはネットの大きな特徴でもありますね。これでは「ネットが現実を動かす」なんて百年早いと言わねばなりません。

そもそもネットユーザーを「善人」と見做す前提が間違っているような気がしてなりません。グーグルと同じじように、ネットの可能性に限りない期待を表明していた梅田望夫さんも、最近、やっと日本のネット状況に対する失望感を口にするようになりましたが(日本のWebは「残念」梅田望夫さんに聞く)、こういったストリートビューのようなサービスは、(実際に特定の地域の画像を差別的な意図で別サイトに転載するケースなどが発生しているようですが)それこそネットに常駐している「バカと暇人」(中川淳一郎氏)に格好の遊び道具を提供するようなものだと言えなくもありません。

そして、その先に待っているのがネット規制でしょうか。なんだかそのシナリオが見えるようですね。

>>10年目のグーグル
>>ストリートビュー

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.09.06 Sun l ネット l top ▲
前立腺炎ですが、薬のおかげか、その後、痛みもなくなり尿の色も元に戻りました。これで終了かと思って、今日クリニックに行きました。ところが、先生の答えは意外なものでした。「前立腺炎はよくなったと思っても、すぐぶり返すことがありますので、あと1週間薬を飲みましょう」と。抗生物質のクラビットと利尿剤のハルナールを飲むとなんとなく身体がだるくなるのです。でも、仕方ありません。

また、「おしっこの勢いはどうですか?」と訊かれたのですが、実は私もそれが気になっていたのです。回数は普通なのですが、どうもいまひとつ勢いがないように思うのです。華厳の滝のような勢いは望むべくもありませんが、なんだかジョロで朝顔に水をやっているような感じ、哀しいくらいしょぼいのです。先生にそう話したら、「やっぱり」というような顔をして、「じゃあ次回はおしっこの勢いの検査をしましょう」と言われました。

おしっこの勢いの検査? まさか、先生か看護婦さんの目の前でおしっこをするんじゃないだろうな?

そう思ったら気になって仕方ありません。たまたまそのあと、仕事で別の病院に行ったのですが、そこで顔見知りの看護婦さんに「おしっこの勢いを調べる検査ってやったことがあります?」と訊いたら、「エエッ、そんなの知らないわ」と言われました。

特殊な検査なのか? 

それで、今度は医事課の女の子に、「今までおしっこの勢いの検査をしたことってあります?」と聞きました。

「エエッ、私が?」
「違いますよ(私は変態じゃありません)。患者さんでそういう検査をした人がいたかどうかってことですよ」
「記憶はないけど、そう言えば、そんな検査があったような」と言って、分厚いレセプト用の点数早見表をめくっていました。そして、「ありました。あまり点数が多くないから、たいした検査ではないと思いますよ」と言うのです。

たいした検査ではない? やっぱり、あれか?

と、そのとき、ふと、前立腺のガンの手術をした人を思い出したのです。それで、さっそく電話しました。

「なんだよ。仕事中なんだよ」
「すいません。つかぬことをお聞きしたいのですが、おしっこの勢いの検査をしたことってありますか?」
「エッ、おしっこの勢い? あるけど、それがどうした?」
「どんな検査なんですか?」
「どんな検査って、バケツのようなものにおしっこをして、先生が別室でなんかデータのようなものを見ているだけだけど」
「じゃあ、先生の目の前でおしっこをするわけじゃないんですね」
「当たり前じゃん」

これでひと安心です。

念のために帰宅してから、ネットで「尿 勢い 検査」と検索したら、OKWaveコミュニティーでヒットしました(尿の出る勢いの検査とは?)。”目測”とかそういった原始的なものではなく、ちゃんとした検査の機械があるのですね。杞憂に終わってよかったよかったという感じです。

ただ、同時に「前立腺の大きさも調べます」と言ってましたので、恐らくまたあられもない格好をしておしりの穴に指を入れられるのでしょうか。それも憂鬱ですが。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.08.29 Sat l 健康 l top ▲
午後から日本大通りの横浜簡易裁判所に行きました。訴訟の申し立てをするためです。商売をしていると、ときにいやな役目も引き受けなければなりません。裁判員制度の影響なのか、民事の受付の担当者の方は恐縮するくらい親切でした。30分近く申立書の書き方など懇切丁寧に説明していただきました。そう言えば、その前に県警本部にも行ったのですが、そこでも皆さん親切でしたね。

001.jpg

002.jpg

用件を終え、裁判所から外に出たら、前の日本大通りが大変な騒ぎになっていました。道路も封鎖され、赤色灯を点滅させた消防車や救急車が集まり、舗道も大勢のヤジ馬で埋まっていました。よく見ると、ハシゴ車まで出動していました。最初、出初め式かなと思ったのですが、この季節に出初め式はないだろうと思って、近くの人に訊いたら、通りに面したビルでボヤ騒ぎがあったのだそうです。三脚を立ててカメラを構えているテレビ局までいました(テレビ神奈川ですが‥‥)。

013.jpg

ボヤ騒ぎのあと、いつものように海沿いを散歩することにしました。象の鼻公園から大桟橋、そして、赤レンガから汽車道を通ってみなとみらいまで歩きました。夕暮れまでは少し早かったのですが、埠頭を渡る風にも秋の気配が感じられました。夏休みの間は人が多いので、どうしても足が遠のいてしまいますが、これからは散歩にいい季節になりますね。私は、どちらかと言えば、「よこはま・たそがれ」(五木ひろし)より「横浜暮色」という言い方のほうが好きです。平岩弓枝の「御宿かわせみ」シリーズに『横浜慕情』というのがありますが、「横浜慕情」というと、ちょっと重すぎて現実感がなくなりますね。

いつもながら、故・平岡正明さんの『横浜的』にもこんな「横浜暮色」を描写した文章がありました。

 花火は風のある日がいい。硝煙が吹き払われるからだ。今年の夏は快晴の日がなく、七月中旬の市主催の花火も、八月初めの神奈川新聞社主催の大会もぼんやりした夜空だったが、九時前終了してレンガ倉庫の間を引きあげてゆく人々の影がよかった。電灯の数がすくなく、ふだんは見回り用に使っている警備員の懐中電燈で足下を照らされてデコボコ道を家路につく市民の影絵が清親の明治浮世絵の雰囲気に近かった。赤煉瓦倉庫と花火の残照。日露戦争期の輸出主力、絹製品をさばくために建てられた倉庫が、旧字の「横濱」を描出する一夜だった。
(「赤煉瓦倉庫で見る花火」)


少し陽が陰ってきた大桟橋に立ったら、ふと、五木寛之さんの『青年を荒野をめざす』を思い出しました。主人公のジュンもたしか大桟橋からバイカル号でナホトカに向かったのです。高校時代、この小説を読んで、自分も遠くへ行きたいと思ったものです。もっとも、九州の片田舎の高校生にとって「遠くへ行く」と言っても、せいぜいが東京で、海を渡るなんてまったく想像の埒外でしたが。そう言えば、同じ五木さんの『海を見ていたジョニー』でも、ジョニーが最後に身を投げたのも山下公園からでした。ベトナム帰りのジョニーが見ていたのも横浜の海だったのです。


003.jpg

005.jpg

006.jpg

007.jpg

008.jpg

011.jpg

015.jpg

016.jpg

017.jpg

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.08.26 Wed l 横浜 l top ▲
民主党

投票日まであと1週間ですが、来るべき民主党政権のイメージはどんなものになるのでしょうか。ビデオジャーナリストの神保哲生さんは、みずからのブログの中で、「検証・民主党政権で日本はどう変わるのか」と題して、6回にわたって「民主党政権の姿」や「民主党政権下の日本のかたち」を具体的にイメージしていました。

神保さんはまず、「ややもすればツギハギだらけの面がある民主党の政策」の中で、結党以来変わらず受け継がれてきた、いわば「民主党のDNA」とも呼ぶべき5つの政策理念をあげていました。

(1)情報公開(ディスクロージャー)
(2)公平・公正と機会均等(フェアネス)
(3)安心・安全(セーフティネット)
(4)地方分権(ローカリゼーション)
(5)包摂と参加(インクルージョンとパーティシペーション)


これらは、今までの自民党政権とは根本的に違う「『まかせる政治から引き受ける政治』への転換」を意味するのだと神保さんは言います。いわゆる「参加型の政治」への転換ですね。当然、そこには「責任」も含まれます。「機会均等」は保障するが、「未来への責任」は持ってもらうし、「ただ乗りは禁止」するというものです。神保さんは、「再分配の優しさと国民総背番号制の冷たさを併せ持つ民主党のフェアネス政策」といった表現をしていましたが、言い得て妙だなと思いました。

私が個人的に興味を持ったのは、「メディア改革」と「教育改革」です。

民主党の「メディア改革」については、以下のようにまとめられていました。

・政府の記者会見をすべてのメディアに開放し、既存のマスメディアの記者クラブ権益を剥奪する。
・クロスメディア(新聞社とテレビ局の系列化)のあり方を見直す。
・日本版FCC(米連邦通信委員会のように行政から独立した通信・放送委員会)を設立し、放送免許の付与権限を総務省から切り離す。
・NHKの放送波の削減を検討する・・・等々


これが第三の権力=マスコミ(新聞&テレビ)に激震をもたらすのは当然で、いざとなれば”民主党叩き”といったかたちで、既得権者たるマスコミが総力をあげて抵抗するだろうことは容易に想像できます。民主党がはたしてどこまでそういったリスクを覚悟で「メディア改革」を実行に移すか、注目されますね。

「教育改革」の目玉は、公立の小中学校は「保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する『学校理事会』が運営する」という、いわゆる「学校理事会」制度の導入です。そして、そこには教育行政の根幹にかかわる「学習指導要領や教科書検定の事実上の廃止」も視野に入っているようです。

いづれにしても、戦後ずっと政権与党に寄生する中で既得権益を手にしてきた官僚とマスコミがこのまま座して死を待つはずもなく、彼らによって民主党首脳のスキャンダルが再び仕掛けられるのではないかという声もありますが、それを乗り切れば日本の国も大きく変わる可能性がありますね。ただ、民主党政権が本来持っている新自由主義的な「冷たい」部分が政治のコントロールを失って役人の手に委ねられると、とんでもなく「きつい社会」になる懸念もあり、その意味では私達にとって民主党政権が両刃の剣であることも忘れてはならないでしょう。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.08.23 Sun l 社会 l top ▲
酒井法子2

覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕された酒井法子容疑者の、夫が逮捕されたあとの逃亡劇といい、逮捕後の供述といい、とにかくシロウトとは思えないようなしたたかさを感じるのは私だけでしょうか。捜査をかく乱するような工作を行ったり、ウソの供述をつづけているのを見るにつけ、事件のあと、「パニックになった」とか、「死にたいと思った」というようなシロウトのそれとはとても思えません。もちろん、そこには彼女をサポートしていた継母や知人の「社長」など、その道のプロのアドバイスもあったのでしょうが、私は、もともと彼女の中にもそういった(市民社会の公序良俗とは真逆にある)美意識や価値観があったように思えてならないのです。

一部では、左足首や左手薬指だけでなく下腹部にも華の刺青を入れているという仰天情報がありますが、中学時代もソフトボール部で活躍していた明るく活発で健康的なイメージばかりでなく、素行の悪さが目立っていたという話もあるようです。「姐さん」であった継母の姿を見て、子供心に「カタギではない世界」に憧れる気持があったのかもしれません。少なくともそういった環境の中で人格の形成が行われたのですから、「カタギではない世界」の美意識や価値観を自然に受け入れる素地があったことは間違いないでしょう。

清純派アイドルや”ママドル”ののりぴーのイメージと、今のしたたかな酒井法子のイメージがあまりにギャップが大きすぎるために、逆によけい今の酒井法子のしたたかさが目立つわけですが、この大きなギャップをもたらした責任はのりピーの生みの親であるサンミュージックにあることは言うまでもありません。今になってカマトトぶっていますが、サンミュージックが酒井法子の生活の実態や周辺にいる人物達の素性などを知らなかったはずがありません。その意味ではサンミュージックはもっと批判されてしかるべきだと思いますが、しかし、常に持ちつ持たれつの関係をつづけお互い脛に傷をもつ者同士であるマスコミの矛先は、いっこうにサンミュージックに向かうことはないのです。

かくして誰も罪や責任を認めようとせず、なんとかそれから逃れようと悪あがきをしているのが、この事件の特徴だと言えるのかもしれません。

しかし、酒井法子ほどしたたかではないにしても、「バレなきゃいい」という考えは今の若者達にも広く見られる特徴です。若者とトラブルを経験したことがある方はわかると思いますが、とにかくどんなウソでも並べて言い逃れようとする、その往生際の悪さにはいつも唖然とさせられます。

商売をしていてつらいのは、人間の嫌な面を見ることですが、最近、その手口がそれこそシロウトとは思えないほど巧妙化しているのを感じます。どこかにシロウトっぽさでも残っていればまだ救われる気もしますが、金額の多寡を除けばもう取り込み詐欺の手口そのものです。警察の担当者も「最近はシロウトとプロの見分けがつかないくらい巧妙化していますよ」と言ってましたが、そんな話を聞くとこっちの方が気が重くなってしまいます。

「バレなきゃいい」「バレても言い逃れれば勝ちだ」

しかし、よく考えれば、これは政治の世界でも私達の日常でもよく見られる光景なのですね。結局のところ、子供は大人を見て大きくなっただけなのかもしれません。

>>魔性

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.08.21 Fri l 社会 l top ▲
病気ついでにもうひとつ。

先日、旧知のドクターと話をしていたら、日本の医療費は「先進国最低」で、なおかつ医療費の国民負担は「世界最高」だと言うのです。私は「そんなバカな」と思いました。政府やマスコミは、常々、医療費が増加の一途をたどっているので、医療費を抑制しなければならないと言ってます。そのために、介護保険や後期高齢者医療制度などがあらたに設けられ、国民負担が増えているわけです。

そこで、ネットで調べてみました。医療費(対GDP比)の各国比較はOECD(経済開発協力機構)が発表しているデータで見ることができますが、それを見ると、たしかに日本は非常に少なく、先進国の中で「最低」という表現が決してオーバーではないことがわかりました。

さらに驚くべきことに、医療費に対する国民負担率は45%(本人負担15%・本人保険料25%)で「世界最高」なのです。国の負担率は25%で、国や事業主の負担率はむしろ下がっています。医療費そのもの(金額)の比較で言えば、国が負担している医療費はアメリカの10分の1にすぎません。

しかも、日本の医療費の特徴は薬と医療機器のウエートが高く、実際の医療行為にかかる費用(技術料)だけを比較すれば、文字通り「世界最低」と言っても過言ではないでしょう。なおかつ、医者の数もGDP比、あるいは人口比でみても、先進国中「最低」だそうです。

つまり、日本という国は、世界(先進国)最低の医療費で、国民は最高の負担を強いられ(国は最低の負担しかせず)、医者の数も最低であるにもかかわらず、世界一の長寿国だということです。

今まで私達が抱いていたイメージと大きく異なりますが、これをどう解釈すればいいのでしょうか。それだけ健康で病院にかかる患者も少ないパラダイスのような国だと考えればいいのでしょうか。でも、現実はとてもそうは言えないことは誰でも知っていることです。

つまり、日本の医療費が低いのは、病院にかかる人が少ないからではなく、診療報酬の算定基準があまりにも低いからです。しかも、大学病院などで高度な先進医療を受けようとすると、その多くは保険対象外で患者負担が大きくなるシステムになっています。入院費を何百万円も払ったなんていう話を聞くと、あたかも診療報酬が高いと思いがちですが、実際は診療報酬が高いのではなく、患者負担が高いからなのです。

医は算術だ(古い!)などとヤユされますが、病院が必要以上に計算高くなるのは、そうしなければ経営が成り立たないからです(病院の70%は赤字だそうです)。また、若い医者が産婦人科や小児科や外科や救急医などになりたがらないのも、訴訟リスクだけでなく、医者の数が少ないために負担があまりに大きすぎるからです。勤務医の加重労働の問題も同様ですね。

こう考えるとき、先進国最低の医療費であるにもかかわらず、高齢化社会をタテに医療費の増加をことさら誇張して宣伝し、さらなる国民負担を設け、新自由主義的な市場原理を医療の中に持ち込んだ小泉改革は正気の沙汰だとは思えませんね。これでは地域医療が崩壊するのは当然でしょう。

余談ですが、医療費とともによくとりだたされるのが「公務員問題」ですが、公務員に関してのOECDの各国比較を見ると、公務員の数(人口千人あたりの公務員数)については日本の場合、特に多いということはありません。意外に思われるかもしれませんが、むしろ少ないくらいです。。ただ、(ややこしい統計なので説明しづらいのですが)、公務員1 人当り人件費の官民賃金格差は、日本は他国に比べて断トツといってもいいほど大きい(つまり、公務員の給与は民間に比べて高い)ことがわかりました。これが役人天国といわれる所以ですね。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.08.20 Thu l 社会 l top ▲
昨日、突然悪寒がしはじめ、熱がみるみる38度5分まであがりました。風邪かなと思ったのですが、咳や鼻水の症状はありません。さらに深夜になると頻繁にトイレに行くようになりました。いわゆる頻尿です。おしっこをしても残尿感があり、何度もトイレに行くのです。しかも、おしっこをするたびに下腹部が痛い。もちろん、尿の量は少量ですが、トイレから戻るとまた尿意をもよおし、我慢していると失禁しそうになるのです。結局、明け方まで何十回もトイレと寝室を行き来するはめになりました。

ところが、何の因果か、朝からどうしても欠かせない用事があったので出かけなければなりませんでした。高熱でしかも頻尿なので、電車も各駅停車に乗って駅ごとに下車してトイレに行くということを繰り返しました。さらに乗り換えの際は待っている時間が不安なので、駅を出てタクシーを利用しました。そして、やっと用事を済ませて帰宅してから、すぐに泌尿器科へ行きました。前に尿路結石の際に行った近くの総合病院に電話したところ、月曜日は泌尿器科の正規の診察日ではなく、担当医もいないので、予約の患者しか受け入れないということでした。それで仕方なくネットで調べて新羽の駅前にある泌尿器科のクリニックに行きました。

高熱がつづいていたので、診察を待つ間もベットで横になっていたほどです。おしっこを取ってくださいと言われて紙コップにおしっこを取ったところ、自分でもびっくりするくらい真っ赤な色をしていました。

検査は採血や採尿のほかに、下腹部のレントゲン、さらに「直腸診」と言うらしいのですが、ゴム手袋した先生が肛門に指を挿入して前立腺を触診しました(今もお尻の穴に違和感が残っています)。

自分ではいつもとは症状が違うもののやはり尿路結石に関連しているのではないかと思っていたのですが、先生の診断は結石とは関係なく、急性前立腺炎だということでした。細菌が入って前立腺が炎症をおこしているのだそうです。

「性病とかそういった思い当たることはないですか?」と訊かれたので、私はついムキになってしまいました。
「とんでもありません!先生。天地神明に誓ってそんなことはありません」
「別に天地神明に誓わなくてもいいですが(笑)」
「‥‥」

薬は、「細菌の感染を抑える」(要するに抗生物質)クラビットと「尿を楽に出せる」ハルナール、それに「熱を下げる」ボンタールカプセルをそれぞれ1週間分処方してくれました。これからも熱があがる可能性があるので、安静にするようにとの指示もありました。また、血液検査でもし「よくない結果」が出たら電話で連絡してくれるとのことでした。

まだ1回しか薬を服用していませんが、いくぶん楽になった感じです。それにしても、年2回健診を受けているにもかかわらず、このところ、毎年のように病院に駆け込んでいますが、やはり年なのでしょうか。若いときと違って堪え性がなくなったというか、身体の不調がすごく身にこたえます。それだけ体力がなくなっている証拠なのでしょう。

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.08.17 Mon l 健康 l top ▲
絵本画家の熊田千佳慕氏が13日未明、横浜市内の自宅で亡くなられたというニュースを目にしました。

昨年、第5巻が出ましたが、眠れない夜、寝床の中で氏の『ファーブル昆虫記の虫たち』(小学館)をめくっていると、なんだか道端にしゃがみこみ、草の間で動いている虫を眺めていた子供の頃の感覚がよみがえってくるような気がします。

氏は「虫や花のことばのわかる画家になりたかった」そうですが、好奇心旺盛な子供の視点で描かれたような細密画は、文字通り単なるボタニカルアートの世界を越えて、感受性豊かな熊田千佳慕の世界が表現されています。もし子供のときに、熊田千佳慕の絵に出会っていたら、今とは違った世界観をもっていたかもしれないと思うことさえあります。

折しも、昨日から松屋銀座で「99歳の細密画家 プチファーブル・熊田千佳慕展」が開かれていますので、お近くの方は是非。

参考サイト:
>> 【PingMag】97歳現役、植物画の巨匠:熊田千佳慕

かわいいシールの通販 シールマニア

2009.08.13 Thu l 文化・芸能 l top ▲